昨年の4月に実施された学力テストの際、東京都足立区の公立小で学校ぐるみで児童に誤答を気付かせるなどの不正を行ったというニュースを受け、社会全体いよいよ近視眼だと思った。
学力テストの結果の公表がそのまま学校の序列になる、という懸念は学力テストについての議論で必ず見られる意見である。
陥りやすい問題だからこそ、みな懸念するのであるが懸念があるのならばいかにそれが現実のものとならずにすむか、学校側も教育委員会も親もそれぞれの対応を考えねばならないだろうのに、今回のこの不正は学校が率先してその「序列化」の価値観に屈してしまったようなものだと思う。
学力テストそのものは実行に意味があると思う。
なぜなら学校にとってそれは自分たちの学校の教育の結果の蓄積として、今後の教育課題の発見に大いに役立つだろうし、子ども個人については自分の理解度を確認する機会になる。
また親にとっては子どもの習熟度を理解するきっかけになるほか、学校とともに子どもの学習環境の改善点を考える材料になりうるはずだ。
学校全体で学校の「ランク上げ」に意識が向き過ぎた結果かと思われる。
点数を上げ、結果を残す―非常に短期的な競争に勝つために近視眼になっていると思う。
思えば、俎上にあがった学校関係者ばかりを責めるのもかわいそうで、今は世の中全体的にみな近視眼のような気がする。
例えば、昨今日本のいたるところに浸透しているように思われる「成果主義」。
本質的には「過剰な予防主義」に見える。
何事もすぐに「数字」「成果」で測ることで、長い目で見ればたいしたことのない停滞や失敗も「致命的」に思われ、失敗要因を減らすことに躍起になる。
できる限り「失敗」地雷を踏まないように、過去の結果に依存する。
昨今の「成果主義」は「将来の失敗という地雷を避けるための過去の成果、主義」のように、私には見えるときがしばしばある。
点数を少しでも良くしようとした学校も、できる限り上位校へ子どもを遣ろうとする親も、生き残るのに不利な結果の種を踏まないように必死なのだろう。
…そのように思うと、なんと言うか一生懸命すぎて神経質すぎるゆえの愚かさ・近視眼傾向に見えて、なんとも哀れな気がしてくるのも事実だ。